人生のシナリオのきっかけ
交流分析において、脚本の理論は重要な位置を占めています。それは、人の行動の理由を知る手がかりになるからです。特に、一見したところ苦痛に満ち、自虐的で絶望的な行動をとる人たちが、なぜそのようなことをするのかを理解する助けになります。もちろん自分自身にも適用できます。自分のことは分かっているようで、分かっていないですから。
私たちは幼児期に、「無条件の愛情と関心をいかに手に入れるか」を解決するために、いくつかの経験から「こうしたほうがいい」と決断したのです。しかし、それは完全には解決できていません。
赤ちゃんだった頃のある日、お腹がすいたけれど母親はミルクを持ってきてくれません。はじめは小さな声を出してみますが、気づいてくれません。そこでもう少し大きな声を出してみます。大声をあげることに夢中になりすぎて、我を忘れてしまった頃にようやくミルクをもらえました。
お腹もいっぱいになったので、母親とコミュニケーションをとりたいと思ったけれど、またどこかに行ってしまいました。そこで今度はさっきと違う手段に出ます。おしっこをしてやるのです。おむつを取り替えてもらっている間は母親は自分の世話をしてくれます。排尿後は少々気持ち悪いので、また大声を出してみせます。それに加えて、手足を少しバタバタさせます。そんなふうにして、母親の関心を自分に向けさせることに成功します。
このようにして、「ほしいものがあるとき、または何かしてほしいときには、大騒ぎをすればいい」と決断します。
大人になってもこの決断は生きています。大騒ぎすることにリスクはありますし、自分自身でやったほうがよっぽど早くできるのに大騒ぎをします。そういう人をよく見かけませんか?
幼児期のこの決断以来、似たような状況になったときは同様の対処をし、うまくいくたびにその決断の”正当性”を確信し、決断はより強固なものになっていきます。
就学前くらいになると、いろいろと考えるようになります。母親がちょっとの間、手が離せず、かまってあげれなかったときがあったとします。彼は「ぼくはきっと嫌われていて、ママはぼくの面倒なんかみたくないんだ。もしぼくが病気になって死んでしまえば、ママやパパはよろこぶだろう」と決めつけます。それ以降、彼は嫌われるような言動を繰り返すようになり、そのたびに両親から叱られ、「やはり嫌われている」と確信するようになります。そして、両親によろこんでもらうように、身体的あるいは精神的な病気になろうとして、実際になっていきます。彼の人生脚本の結末は病死であり、そこにまっすぐ向かって進んでいくのです。
こういった幼児期の決断は大人になっても”子ども”の自我状態で支持され、両親からの教えやしつけにおける局所的な選択は”親”の自我状態を形成しますが、これもまた脚本に影響を与えていくことになります。